リフト経営にも乗り出す 【イベント予約はこちら】

ウィンタースポーツも年々盛んになり、昭和十五年(一九四○)には、第五回冬季オリンピックが札幌で開催されることになっていたが、戦争のため中 止。選手として出場が決まっていた片桐匡氏も無念の涙を呑むしかなかった。それでもスキーだけは戦争遂行に必要ということで追放だけは免れた。スキー倶楽 部でも戦技スキーの講習会などに参加するようになった。
そして、敗戦。平和な時代の到来を待っていたように競技スキーも復活する。昭和二十三年三月には第三回国民体育大会スキー競技会兼第二十六回全日本スキー選手権大会が野沢温泉で開催された。
食糧事情も交通事情も悪い時代であったが、スキー愛好者たちが野沢温泉に戻ってくるようになっていた。そんな頃進駐軍が志賀高原丸池スキー場にリフトを建 設してスキーを楽しんでいた。草津に民間のリフトが建設されたのを見た片桐匡氏は野沢温泉にもリフトを建設すべきだとした。
さまざまな障害を乗り越えて、昭和二十五年(一九五○)十二月、日影スキー場に第一号リフトが完成。スキー倶楽部は積極的にスキー場経営に乗り出していく ことになる。二十九年に第二リフト、三十四年に全長千百二十九メートルの第三リフト、三十六年には上ノ平に第四リフトを建設。次々にスキー場を整備拡充し ていった。

2005年09月01日

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