
大正12年(1923)12月8日、野沢温泉スキー倶楽部が創立された。
創設に賛同した会員は23名。入会金一円、年会費五十銭であった。
倶楽部は「スキーノ普及心身ノ鍛練及当温泉ノ発達ヲ図ル(会則より)を目的とし、技術練習・講習会開催・技術員招聘と派遣・技術研究・スキー場整備・スキー宣伝などの事業を行う団体だ。いわばスキーによる村起こしの先駆けである。そのころの冬の野沢温泉といえば近郷近在からの湯治客が来る程度で、大方はあけび細工や紙すきなどの冬仕事。
あとは雪との闘いであった。そんな状況の中で、ようやくそのころ学生の間に普及し始めたスキー客も、ぽつぽつ訪れるようになっていた。
スキーが縁で野沢にやって来た藤沢教諭の「雪国文化の開発はスキーに如かず」という奨めもあって、まず自分たちでスキー客を誘致しよう、と立ち上がった。
正式発足したスキー倶楽部は、早速誘致活動を開始した。大正13年1月には法政大学スキー山岳部員数人がスキー場の視察に来村、3月には12名の学生が初のスキー合宿にやってきた。
同じく専修大学、東京商科大学の学生も練習にやってきた。これが野沢温泉スキー場のスタートでもあった。
当時、全国にあったスキー場は三十九ヵ所、長野県では飯山と野沢温泉だけ。早々と学生スキーの合宿誘致に成功し、宿泊施設も揃ったスキー場として出発した野沢温泉。
その牽引車的な役割を果たしたスキー倶楽部の存在が、今日の競技スキーのメッカとしての野沢温泉を方向づけることとなる。

次々に学生スキー合宿の誘致に成功したスキー倶楽部では、大正13年には御犬山スキー場(現在のスキースクール日影本校横)に、翌14年には日影スキー場にもシャンツェを建設した。
学生達の要請で14年1月にはスキー倶楽部と法政大学スキー山岳部の主催で、 野沢温泉第一回スキー競技大会が開催された。
野沢温泉スキー場での初の大会である。
昭和3年(1928)には、日影スキー場に50メートル級の野沢温泉シャンツェを建設。
翌4年2月にはノルウェーのオラフ・ヘルセットの一行が野沢シャンツェを改造して模範ジャンプを披露、 コルテードが43メートルを飛んで日本での最高記録をつくった。
さらに昭和5年3月に、 スキーの神様とも仰がれたオーストリアのハンネス・シュナイダーが訪れ、高速のスキーのアールベルグスキー術の講習と模範滑走を行った。
これら外国の一流選手の指導で、スキー倶楽部メンバーの技術が向上しただけでなく、スキー場としての野沢温泉は大きくグレードアップした。

また、昭和5年の2月には第五回明治神宮体育会スキー競技会が開催され、大会事務局がスキー倶楽部事務所におかれた。
この大会で日本では初めてアルペン種目が採用され、滑降、回転、ジャンプ、距離、リレーの五種目が行われた。
このような一流外国選手の招鳴、全国規摸の大会の招致・運営などの表方・裏方もすべてスキー倶楽部である。
経験を積むごとにスキー倶楽部は各種の運営に自信をもち、野沢温泉スキー場も一流としての名声を博すようになった。

ウィンタースポーツも年々盛んになり、昭和15年(1940)には、第五回冬季オリンピックが札幌で開催されることになっていたが、 戦争のため中止。
選手として出場が決まっていた片桐匡氏も無念の涙を呑むしかなかった。それでもスキーだけは戦争遂行に必要ということで追放だけは免れた。
スキー倶楽部でも戦技スキーの講習会などに参加するようになった。
そして、敗戦。平和な時代の到来を待っていたように競技スキーも復活する。
昭和23年3月には第三回国民体育大会スキー競技会兼第二十六回全日本スキー選手権大会が野沢温泉で開催された。
食糧事情も交通事情も悪い時代であったが、スキー愛好者たちが野沢温泉に戻ってくるようになっていた。
そんな頃進駐軍が志賀高原丸池スキー場にリフトを建設してスキーを楽しんでいた。 草津に民間のリフトが建設されたのを見た片桐匡氏は野沢温泉にもリフトを建設すべきだとした。

さまざまな障害を乗り越えて、昭和25年(1950)12月、日影スキー場に第一号リフトが完成。
スキー倶楽部は積極的にスキー場経営に乗り出していくことになる。
29年に第二リフト、34年に全長千1129メートルの第三リフト、 36年には上ノ平に第四リフトを建設。
次々にスキー場を整備拡充していった。
昭和30年代も後半になると、高度成長の波に乗ってスキーをレジャーとして楽しむ傾向が強まっていった。
スキー場にもファッション性や遊びの要素がもとめられるようになったのだ。
各地で新しいスキー場がオープンするようになり、 野沢温泉にも一般企業から開発目的の土地買収やリフト建設の申し込みが相次ぐようになった。
野沢温泉ではスキー倶楽部がリフト建設やゲレンデ開発・整備などスキー場を経営するという他に類を見ない歴史がある。
時代の趨勢を見極めていたスキー倶楽部では、この歴史と伝統が村外資本に撹乱されてはならないと、
昭和38年村当局と協議してスキー場の管理経営権を村に委譲ることに決定した。
経営権が村に移管され、以後のスキー場開発も村の手で行われるようになった。
このときスキー倶楽部と村は覚書を交わし、 選手育成や各種大会への選手派遣費用、大会開催の費用などを助成することに決定した。
これによってスキー場経営というハード部門は村が、選手育成などのソフト部門はスキー倶楽部が行うという「車の両輪」の関係が成立した。